元気な子どもたちの人権メッセージ

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★元気になれるメッセージ 〜子どもたちの人権作文

  
元気,人権

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元気になれるメッセージ 
 〜子どもたちの人権作文〜
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元気になれるメッセージ 〜子どもたちの人権作文〜


法務省と全国人権擁護委員連合会は、人権尊重思想の普及高揚を図るた
めの啓発活動の一環として、昭和56年度から「全国中学生人権作文コンテ
スト」を実施しています。

次代を担う中学生に、人権問題についての作文を書いてもらうことにより、
人権尊重の重要性、必要性についての理解を深めるとともに、豊かな人権
感覚を身につけてもらうことを目的としています。

ご紹介する作文は、平成17年度(第25回)の全国大会で入賞した11作品
です。

新米人権擁護委員として、自分の出来ることを考えたとき、「人権ってナニ?」
「人権を尊重するってどういうこと?」など、私自信がこれまであまり意識する
ことのなかった人権問題について、できるだけたくさんの方と一緒に考える
機会をもつことだ!と思いました。

私もそうでしたが、「人権」っていうと少し難しいイメージを持ってしまいますが、
なんのことはない、人権って「あたりまえのことをあたりまえにできる権利」っ
てことなんですね。

普段から、そのことを意識することはとっても大切で、それは自分の人生を
大切にすることにつながり、次に他人に対する思いやりの心へと昇華してい
くことになるのです。

自分の人生を大切にし、生きる事を楽しんでいなければ、他人の人生、他人
の生き方に好意的な関心を持てるわけがありません。

このことを、子ども達はわかっているんですね。

大人のあなたならそのプライドを捨て、「自分に不足しているモノ」を子どもた
ちのメッセージから素直に学ぶ姿勢をもち、同世代であれば、この11人の考
えと、普段の自分の考え方を比べて「何が違うのか、何が一緒なのか」をじっ
くり考える機会にして下さいね。皆が互いの人権を尊重しながら生きていくっ
て、そんな小さな気付きがとっても大切って思います。

そんなあなたの周りにはきっと、ステキな人間の和が広がっていくことでしょう。



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私は負けない                   
熊本県・尚絅学院尚絅中学校 一年 生田 すみれ子

世の中には、人の数だけ差別がある。人の数だけ偏見もある。どんなに
ちいさくても、差別は差別。ちょっとした偏見も、ちゃんとした偏見。ありませ
んか?あなたの中にも、そんな差別や偏見が。

 日本は明治以降四民平等となり。戦後は日本国憲法で基本的人権の尊
重をうたっている。が、私達の周りでは、恵楓園の入所者に対する温泉ホテ
ル宿泊拒否問題が起こり、それに伴い、恵楓園の方々への様々な誹謗中傷
があった。

「かわいそうだから同情してやったのに、(告発なんかして)生意気だ。
もう手助けになる事は何もしてやらない」

私はこの中傷文の一部を見た時、これがまるで自分に対して言われている
様な気がしてならなかった。これをどんな人が書いたのかは知らないが、ど
んな世代でも、どんな立場においても、皆言う事は同じなんだなぁ、子供も
大人も考える事は一緒なんだ、と思った。そしてこんな考えを持つ大人に教
育された子供が、やがて同じ考え方をする人間になるのか、とも思った。

「世話してあげない。」「手伝ってあげない。」私は今まで、一体どれだけこん
な言葉を言われてきた事か。もし私が健常者だったら、すぐに、「いいよ、しな
くて。」と言うだろう。それは健常者の場合、その世話や手伝いは、相手の言
いなりになる位なら、「して貰わなくてもいい」程度のものに違いないからだ。

しかし、私達障害者はそうはいかない。日常生活で周りの世話にならなかっ
たり、手を借りない、という事はまずない。小学生の頃の私は、今以上に色ん
な事が一人で出来なかった。

そんな私が皆から、「世話してあげない」と言われる事は、「学校へ来るな」と
言われているのと同じ事だった。

一年生の時、同じクラスの女の子が、私の返事の仕方が気に入らなかったら
しく、私に、「もう何もしてあげない。」と言った。一年生の私は、ただ悲しくて、
おろおろして、泣くばかりだった。事のてん末を知った当時の担任の吉良先生
は、その子の「してあげない」を聞くと、こう言われた。

「してあげる、気持ちですみれ子さんに接するなら、今後一切、本当に何もし
なくていいです。」

自分より「弱い立場」と位置づけた者が、少しでも意に染まぬ事を言ったりす
ると、すぐに「〜してあげない」と言う。
それを「非」とされた先生。六年たった今でも、吉良先生の、あの言葉は、私
の心に宝物としてずっと残っている。

 中学生になった私は相変わらず、毎日友達に面倒をかけっぱなしだ。
私が通う学校は、中学の校舎はエレベーターがあるが、高校にはそれがな
い。つぎはぎの階段、せまくて急な階段。辛いバリアが待ち受ける。

「そっち持った?誰かここ持って。」

「いい?行くよ!せーの!」

私共に五十キロは超える車椅子を、か細い尚絅乙女子が一生懸命運んでく
れる。クラスメートが、先輩が、先生方が、時には高校のお姉さん達も手伝っ
てくださる。

(重いでしょう?大変でしょう?)

私は心の中で、何度も、何度も、(ありがとう。)を繰り返す。
周りの大勢の人達の、「生田を何とか一緒に学ばせてやりたい。」という優し
さに囲まれて、私は学校生活を送っている。私のたくさんの「したい」が、皆の
思いやりと温かい心で「できる」になっている。

 そんなある日、私と友達との間に小さなもめ事が起こった。それはすぐにお
さまったが、私のは不安でいっぱいになった。もう声もかけて貰えないんじゃ
ないか。昔の嫌な思い出が次々と頭の中を駆けめぐった。
でも、何一つ変わらなかった。

 私は、この、「変わらない」という事が、とても嬉しかった。そして、「変わらな
い」事が当たり前でなく、その人の中にある、口先だけではない、まっすぐな
倫理観がそうさせたのだという事も、よく分っていた。

 私が皆と同じ「私」であるために、「一年一組二番」の生田であるために、昨
日も今日も明日も、ずっと支えてくれる友達がいるから、先生がいるから、だ
から、私もがんばる。

 がんばって、がんばって・・・障害なんかに負けない。

 私は、決して、負けないから


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たっちゃんと呼ばれた日
宮崎県・都城市立妻ケ丘中学校 一年 鈴木達三

 「たっちゃん。」

慎ちゃんが初めてぼくを呼んだ。中学校へ入学してから約三ケ月、ぼくは毎
日、慎ちゃんの手を慎ちゃんの胸にあて「慎ちゃん。」と言い、次に慎ちゃんの
手をぼくの胸にあて「たっちゃん。」と言う。この同じ動作をくり返してきた。慎ち
ゃんは次第に、ぼくと一緒に「慎ちゃん。たっちゃん。」と言うようになり、そして
今日、ついにぼくがいつもの様に慎ちゃんの手を握ると、

「たっちゃん。」

慎ちゃんは確かにぼくの名前を呼んだ。

 ぼくは六年生の三学期に転校して来た。そのクラスに慎ちゃんがいた。
慎ちゃんは時折興奮していきなり大声をだし、誰かれかまわず手でたたき、
物を投げ、その後、両手を頭の横にピタッとつけ、何かにおびえるようにぶる
ぶると震え出す。

障害のある子と同じクラスに初めてなったぼくは驚き、嫌悪感さえおぼえた。
しかしそんな時、担任の先生がそっと慎ちゃんに近づいて、慎ちゃんをぎゅっ
と抱きしめる。
すると慎ちゃんはリラックスし、またいつもの陽気な慎ちゃんに戻るのだ。

さらにここは友達を差別するにおいは全くなく、それどころか放課後にはクラ
スの大半の子が必ず慎ちゃんの席のまわりに集まって、慎ちゃんを中心とし
たやわらかな輪が自然にできる。転校生だったぼくも慎ちゃんの輪に入れて
もらったおかげで、すぐに友達ができた。ぼくは慎ちゃんの事を何も知ろうと
せず、偏見を持ったことが恥ずかしかった。

 中学に入学すると慎ちゃんはすごく不安定になった。それに加え、初めて慎
ちゃんと知り合った他の小学校から来た子の何人かは、慎ちゃんをからかって
いく。中には慎ちゃんの反応が面白いからと、背中をつねっていく子もいた。

慎ちゃんはその度に、花びんを割ったり、関係のない子をたたいたりした。
ばく達は毎回、慎ちゃんをかばいながら、いたたまれない気持ちになる。

授業参観の日には興奮した慎ちゃんが、隣の席の子に筆箱を投げつける事
件があり、翌日、お母さんが先生に謝りに来た。
小学校の頃から、慎ちゃんのお母さんは事あるごとに学校に来て先生やぼく
らに頭を下げている。ぼくはいつも黙って聞いていたけれど本当は慎ちゃんの
お母さんに

「慎ちゃんの良さはもうみんなに教えられて分っているから心配しないで。」
と言わなければ、と思う。

 慎ちゃんの存在は、ぼく達にとって鏡だ。ぼく達は、慎ちゃんのお母さんの、
慎ちゃんに対する愛情を見て、ぼく達もどれほど家族に愛され大切にされてい
るかを、考える事ができる。

それから慎ちゃんにたたかれても怒ったりやり返したりしないのは、自分の姿
が慎ちゃんを通して写し出されるからだと思う。同情ではない。皆、「慎ちゃん
が決してぼく達の事を嫌いじゃない事を知っている。心を通じ合わせた日には
仲良くやっていける。その日を待っている。ただそれだけの事さ。」

そういう気持ちで慎ちゃんを見守っている。

転校生のぼくを包み込んだやさしい輪はやがて中学の全員に広がり、慎ちゃ
んを悲しませる人がいなくなる。ぼくはそう信じている。

 慎ちゃんは音楽が大好きだ。みんながつまらなさそうに歌っていても慎ちゃ
んは魂の底から音を楽しみ、うれしそうにリズムをとって大声で歌う。その歌声
はぼく達の魂を強くゆさぶり、ぼく達の気持ちはどんどん開放され明るいハー
モニーが生まれる。

二学期に行われる学級対抗の合唱コンクールの伴奏者に、ぼくは立候補した。
本当に歌を楽しむ慎ちゃんのエネルギーに負けないよう、力いっぱいピアノを
弾きたい、と思ったからだ。もし、慎ちゃんが参加することで「音やリズムが狂
う。」そう心配する友がいたら、ぼくには答えが用意してあった。

「美しいハーモニーというのは、音程なんて関係ないさ。大切なのは、歌が好
きだっていうことと、心がそろっているということなのさ。」

しかし、ぼくの説明は必要なさそうだ。だって慎ちゃんが「歌いたい。」と思う
権利を尊重しない子が、今のぼくのクラスにはすでに一人もいないのだから。

こんなすばらしい仲間達と心をひとつにした歌声は、きっと学校中の、まだ慎
ちゃんという人間の事をきちんと理解していない人の心にも響き、これが彼の
人権を考えるきっかけになればと願う。

 ぼくが慎ちゃんと心を通じ合わせる日は近い。だって今日ぼくは、慎ちゃんに
確かに呼ばれたのだから

「たっちゃん。」と
 


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確かで強く尊いもの
愛知県・蟹江町立蟹江北中学校 二年 前野好美
 
雨の日も風の日も、毎日毎日、家の前の道を歩く親子がいる。

私は部活で朝早く家を出るのでたまにしか会えないが、私の母が洗濯物を干
しているころの時間にもちょうどその親子が家の前を通るので、母は毎日挨拶
を交わすらしい。

挨拶がきっかけとなり、数年前からの友達だという。その人の息子さんは知的
障害があり、同じような障害のある人たちが働く施設に通うために、毎日歩い
ていたのだ。

私がその親子を見たのは、もう結構前のことだが、二階の自分の部屋からガ
ラス越しに見えた母と挨拶を交わしているその親子の表情は、とても印象に
残っている。
それは、さわやかで優しくて、あたたかいものを感じる眼差しだった。

これはいわゆる思い込みによる差別になってしまうかもしれないが、何の障害
もない人間よりも、何かの障害にならざるをえなくなった人間の方が暗い表情
をしているのが、普通だと考えがちではないだろうか?
少なくとも私もそう思っていた人間の一人だった。

何の障害もない人間よりむしろ、生きているという自信に満ちあふれているよ
うな凛とした親子のあの表情は、どこからくるのだろうか?私の母が最も尊敬
しているというその親子の足跡ともいうべき貴重な話を、母から知ることができ
た。

 その人が、結婚してやがて赤ちゃんができたと分った時、家族も親戚の人た
ちも、みんなとても祝福してくれ、生まれてくる日をとても心待ちにしていたそう
だ。

「どんな名前がいいだろうか?」とか「お祝いはどんなものがよいか」とか「女
の子と男の子とどっちがいいか?」など、話題はすべて赤ちゃんのことだった
ほどだったという。その様子は、どこにでもある誰が見てもほほ笑ましい光景
だったに違いない。

ところが、生まれてきた祝福されるはずの赤ちゃんは、生まれつき脳の障害
があった。名前の候補など消え、お祝いどころではない。「おめでとう」の言葉
のかけらもない冷ややかな空気が漂っている中、第一声で浴びせられた言葉
は「こんな子を産んでどうする気だ!家の恥だ!全部、女のお前の責任だ!」
というものだった。

こんなことではお祝いにもかけつけることもできないという親戚からは、電話で
ただただ責められたそうだ。「お腹にいる時に異常があると分からんかったの
か。分かっとったら何とかできとったのに・・・。もう人生の終わりだ。」と。

 障害のある子を産んだこと自体、そして障害児の存在そのものをも否定され
てしまい、赤ちゃんをぎゅうっと抱きしめたまま、ふと気がつくと電車のレール
の目の前まで来ていた。ポタポタと落ちる涙に反応したのか、その時、赤ちゃ
んがお母さんを見つめて、天使みたいな汚れのない顔で笑い、ちっちゃなちっ
ちゃなモミジみたいな手でお母さんの腕をぎゅうっとつかんだというのだ。

まだ、か弱いけれど、赤ちゃんにしてはとても強い力だった。それは

「母さん、僕は今こんなに元気なんだ。生きているんだ。生きるために生まれ
てきたんだよ。泣かないで強く生きていこうよ」と、自分に言っているように思
えたという。

「ごめんね。ごめんね。母さん馬鹿だった。何を言われようと、どんな目で見ら
れようと、私は母親なんだ。この子と一緒に強く生きていこう」と心に決めてか
ら二十数年の年月が流れた。

その間には、やはり涙をついこぼしてしまったこともわずかだったがあったそう
だ。その時、いつも心配そうにハンカチをすぐ持ってきて、ふいてくれたのは息
子さんだったという。

「だいじょうぶだよ。ありがとうね」と言うと、生まれたころの、あの天使のよう
な優しい顔で笑うのは、ずっと変わらなかったということだ。

その人は私の母にこうも話したそうだ。

「あの子は道端に咲いている草花さえ、ちぎったらかわいそうだというような
優しい子に育ってくれた。少しでも人の役に立ちたいと仕事も頑張っている。
周りの人たちは、あの子を産んで人生終わりも同然のようなことを言ったけれ
ど、私はあの子がいてくれたからこそ頑張って生きてこられた。

子どもを産むことができる女性に生まれてきた幸せにも気づくことができた。
障害がある子を持って辛かったことなど一度もなく、反対に、喜びをいっぱい
もらうことができた。ただ、辛かったのは、世間の冷たく向けられた女性への
差別、そして障害者への差別だけだったのだ」と・・・。

 私は間違っていた。障害のある息子さんもお母さんも、障害が何一つない
人と比べたら、辛いだろう、かわいそうと、つい思い込んでしまっていた。
だが違う。障害イコール不幸ではない。人生終わりでもない。

問題なのは、そう決めつけてしまう差別の方だったのだ。

私は強く思った。差別がどれほど人の心に傷をつけるかということ、そして差
別なんかものともしない確かで強く尊いもの、それは私たち人間の心の中に
あるということを・・・。


                                      このページのトップへ
梅雨に入った日
埼玉県・松伏市立松伏第二中学校 三年 中里 琢

今年、関東地方が梅雨入りをしたのは六月十日の金曜日だった。
僕はこの日を絶対忘れないだろう。

 僕の兄は障害を持っている。今年の三月、越谷養護学校の高等部を卒業し
た。そして、就職活動のために毎週木曜日、ハローワークに行き、そこで紹介
された会社へ面接に行く。六月までに三度行った。結果は全て不採用だった。

兄は自分の生涯を自覚している。不採用の通知が来ると、その日は落ち込
む。でも翌日から「また木曜日にハローワークにいってくる。」と明るい声で話
す。兄は僕に色々な事を話してくれる。面接の時、ハローワークの担当者に

「この子は言葉が話せるんですか?」

「突然、暴れたりしませんか?」

と目の前で聞かれて悲しい思いをしたこと。その会社の一つは障害者雇用で
日本でも有名な会社だったこと。

「僕はまだちゃんと喋れるけれど、障害で筋肉をうまく動かす事ができないか
ら、突然、大声を出すように見える人だっているんだ。みんな健常な人と同じよ
うに話したいんだ。何で分かってくれないんだろう?」
と兄はちょっと怒った口調で僕に話しをした。

 六月九日木曜日、兄はハローワークに行った。そこで紹介された会社は今
までの中で家から一番近い所だった。自転車で五分、歩いても十五分の距離
だった。そして、翌日の六月十日、梅雨に入ったこの日、兄は母と一緒に面接
に行った。

学校から帰って来た僕を待っていたのは、嬉しさを隠しきれない兄の笑顔だっ
た。

「採用されたよ。」

の言葉をきっかけに兄の話は止まらなかった。本社は群馬にある二十人位の
ねじを作る会社だということ。工場長が自分を一人の人間としてキチンと対応し
てくれたこと。

実際に作業をさせてもらって、障害をもつ自分でもやっていける自信があるこ
と。頑張れば正社員になることができること。他のパートのおばさんたちも一
人の人間として扱ってくれたこと。十三日の月曜日から働けること。

兄の話は止まらなかった。

だから僕は、嬉しくてたまらなかった。

 十一日の土曜日、僕達家族は兄の就職祝いを兼ねて食事に出掛けた。
途中で寄ったホームセンターで百九十八円の中国製の傘に目を止め兄が母
に聞いている。

「お母さんこれ買っていい?」

普段滅多に物をねだらない兄にしては珍しいなと、僕は思った。
三種類の色の中から一番地味な色を兄は選んだ。その日の夕食は本当に楽
しく過ぎていった。

 十二日日曜日、お昼前に電話が鳴った。母が出た。電話している母の顔が
曇った。涙声になった。

電話は工場長さんからだった。

「群馬の本社の社長に兄の採用を伝えたところ、もし万が一怪我でもしたら会
社としては責任を取れない。と言われた。だから、今回は、採用を見合わせた
い。」との電話だった。

母からその話しを聞いた兄は何も言わずソファに座った。顔はテレビを向いて
いたが見ていないのは分かった。十分程して兄が母の方を向いて言った。

「お母さん、傘買っちゃってもったいなかったね。」

この時、お兄ちゃんの感情が僕に押し寄せてきた。

自由のきかない手足で毎日一時間、自転車の練習をしているお兄ちゃん。
お兄ちゃんの頭には自転車で出勤をしている自分が見えていたんだ。
梅雨に入り、雨で自転車が漕げない日の為に、自分の新しい出発を祝って
傘をねだったんだ。お兄ちゃんの目には雨の日に新しい傘を差して出勤をす
る自分が見えていたんだ。

 この時、何故か、僕は自分自身に腹が立っていた。面倒くさがりの自分。
提出物を出さず怒られてばかりいる自分。体力の無い自分。女子よりも握力
の無い自分。兄のために何もできない自分。本当に無力の自分。

 夏休みに入り、僕は六時に起きて一時間ウォーキングをしている。
父に頼んで握力を強くする器具を買ってもらい、いつも握っている。
提出物を絶対期限内までに出せるよう毎日、確認をしている。
英検は合格した。次は漢検だ。でもまだまだ全然だめだ。


 強くならなくてはいけない。家族に守られている僕が、いつか兄を守るために。

障害を持つ人たちが悲しい思いをしないために。
僕は2005年の6月10日を絶対忘れない。

「傘もったいなかったね。」

僕はこの兄の言葉を絶対忘れない。



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僕の本名への思い
福島県・いわき市立植田東中学校 三年 新井 常豪

 “朴 常豪”(パク サンホ)それが僕の本名です。

幼い頃から、アボジとオモニに僕が『朝鮮人』だということを教えられてきまし
た。在日コリアン三世にあたる僕は、幼稚園から現在までずっと日本の教育
を受けてきました。それ故に、母国語も満足に話せず、本名を名乗ることもあ
りませんでした。

 “じょうごう”という日本語名で通っていた幼稚園で、初めて自分の名前に疑
問を感じたのが最初でした。

「呼びにくい」「変な名前だな」などと言われたのです。幼かった僕は、「皆と同
じ名前が良い!」と強く願うようになりました。
しかし、その思いはある意外な形で払拭されたのです。

 五歳の時のことです。七日間ほど高熱を出し、当初は単なる風邪だと診断さ
れました。ところが、一向に治る気配もなく総合病院へと転院することになりま
した。そして、病魔の謎がやっと解明されました。

病名は、若年性全身リュウマチ。全身の関節が痛む病気でした。

僕は二ケ月間、病院での生活を余儀なくされたのです。関節の痛みに耐えな
がらも、幼稚園に行かなくてすむと思っていました。名前を気にしなくて良いし
友達に何か言われることもないと思い込んでいました。

 そんなある日、幼稚園の先生がお見舞いに来てくださり、一束のカードを受
取りました。そこには『あらいじょうごうくんへ』と大きく書かれてありました。

一抹の不安を抱きながらページを開いた瞬間、僕の目は大きく揺らいでいまし
た。「一日も早く元気になってね」「早く治して一緒に遊ぼうぜ」という言葉や絵
が書かれていました。

僕は間違っていたことにそこでやっと気付きました。皆は僕を嫌がってなんか
いなかった、しかもこんなに心配して待っていてくれたということを知ることがで
きたのです。本当にうれしかった瞬間でした。

それ以来、僕は「幼稚園に早く戻りたい」一心で薬も積極的に服用し早く治る
ように努めました。

やっとの思いで退院はできたものの、僕は過度の運動は禁じられました。
身体に負担がかかると関節痛の頻度が高まるからです。

 惜しむ気持ちで幼稚園を卒業し、小学校への入学の時が来ました。
僕の心の中には不安が一杯に広がり始めました。せっかく仲良くなれたのに、
また名前でからかわれるかもしれないと。

しかし、その心配をよそに、皆は病気の僕に手を差しのべてくれたのです。
友達もたくさんでき、さらに、痛む時は代わりに荷物を持ってくれたり、時には
背負ってくれたり、僕は心の温かみを感じずにはいられませんでした。

しかも、この状態は六年間変わることなく継続されたのです。
友達の心の温かさに勇気づけられ、思い悩んでいた僕が、皆と同じ日本人で
はないことを話してみました。

本当はこのまま隠し通した方が良いのではないか随分と悩んだのですが、皆
なら分かってくれるはずだと決心して打ち明けたのです。
ドキドキしながら皆の返答を待っていると・・・。

「そんなの関係ないよ。常豪は常豪だろ。国籍は違っても常豪に変わりはない
よ。」いう明解な答えを出してくれたのでした。

 当時の先生方も理解のある方々で、特に校長先生は僕の気持ちをじっくり
聞いて下さり、卒業証書を本名の“朴 常豪”で書いて下さったことには素晴ら
しく感動しました。

 現在、僕は中学三年生です。新しい環境の中で小学校時代のように皆は助
けてくれていますが、国籍のことに関しては言えないでいます。中学生は多感
な時だからこそです。

 今、日本と韓国との関係は、交流が活発になってきたとはいえ、まだまだ意
思の疎通が十分とは言えません。もし、両国の関係が悪化してしまったら差別
されかねません。だから、僕は国籍を言うことが恐いのです。

 今まで、イジメなど、何の弊害もなく幸せに過ごしてきました。贅沢な悩みと
思われるかもしれません。単なるワガママととらえられるかもしれません。
常に助けてくれる人がそばにたくさんいる幸せを味わっている僕がそんな事を
言う資格もないかもしれません。だけど、外国人であり、難病であるハンデを
背負っている僕が孤独になってしまったら、僕は何もできなくなります。

 しかし、「常豪は常豪だよ」と励ましてくれた日本人の多くの友達のためにも
弱音を吐かずに胸を張って、僕は『朝鮮人』だよと言わなくてはならないのです。

 僕を優しく見守ってくれている両親、親族、そして、僕の心の支えになってく
れた日本人の友達、先生方に感謝の気持ちを表す意味でも堂々と本名を名
乗ろうと思います。それが「ありがとう」の証なのです。

 呼んでください。僕の名前は“朴 常豪”(パク サンホ)です。


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兄のこと、知ってください
愛媛県・八幡浜市立八代中学校 一年 松本 綾

私の兄は、重度心身障害児です。私は、このことを小学生の頃から「隠すこ
となく」人権作文に書き続けてきました。「隠すことなく」と強調するのはなぜか。

それは、まだまだ、世間の障害者に対する認識が浅く、家族に障害者がいるこ
とを「恥ずかしいこと」ととらえている人が多いからです。

 障害者が生まれると、ます、一番先に差別するのは、家族だと聞いたことが
あります。障害をもって生まれた子どもに対して、「どうして?」とか「どうしよう」
という気持ちをもってしまうのです。

「身内に障害者がいるということは、恥ずかしいこと」と思うこと自体が差別だと
私は思います。今まで、障害のことをほとんど知らなかった家族が、これから
先ずっと
障害者とかかわっていくことになるので、戸惑いや隠したくなる気持ちもわか
るような気がします。

でも、家族だからこそ、どうしたら障害を克服できるかを考え、少しでも自立に
向けて、工夫や手助けをすることが大切だと思うのです。

 我が家に障害をもった兄が生まれたとき、両親はまず、兄の病気について
片っ端から本を読んだそうです。どんな障害なのか、そんなことに気をつけな
ければならないのか、学んだそうです。そして、よいと思ったことは、すべてや
り尽くしたと言います。

この両親の話を聞いて、偏見や差別をなくすためには、正しく知る、正しく理解
することが大切なのだと私は思いました。兄のために、いろいろ取り組んでき
た両親ですが、一つだけ後悔したことがあると言います。

兄が小学三年生のとき、両親は、リハビリなどの面でよいと考え、兄を松山市
の施設に入所させました。兄を施設に残し、

「また来るからね。がんばってね。」

と声をかけ、帰ろうとした時、兄は一粒の涙を流しました。母は、あの涙が忘れ
られないと言います。そして、「これで本当にいいのだろうか」とずっと悩んだそ
うです。

その後、毎日のリハビリで、しばらくはよい結果が出たものの、やがて兄の頭
に一円玉くらいの円形脱毛症が見られたり、二年間に七回も胃の病気で入退
院を繰り返したりするようになりました。

これらの病気は、精神面のストレスから起こることが多いと知った両親は、兄
の「家に帰りたい」という気持ちに気づいたのです。
二年ぶりに我が家に帰ってきたときは、兄は十歳の誕生日を迎えようとしてい
ました。

 言葉で自分の意思を伝えることができない兄は、嫌なことがあっても、それ
をうまく表現できません。兄が生まれたとき、医師から「この子の命は十年」と
宣告された両親は、「絶対に十年なんかで死なせるものか」という気持ちで
一生懸命でした。

だから、兄の気持ちも考えず、いろいろなことをさせてきたのです。それが、兄
を苦しめていると気づくのに随分時間がかかりました。兄は、両親のもとでゆっ
くりと過ごしたかったのです。何もできなくても、ただ家族といたかったのです。

そんなことがあってから、我が家では、兄と相談しながら、無理のない散歩や
リハビリを行うようになりました。そして、ちょっとしたしぐさや表情で、兄の心を
つかもうと努力しています。

兄はうれしいことがあると、体中で喜びを表現します。不便なことや思うように
できないこともたくさんあるのに、いつもニコニコ笑っています。そんな兄を見て
いると、何でも思うようにできるのにわがままばかり言ってる自分が恥ずかしく
なります。

 母は、兄の背中の曲がりを防ぐため、一日も欠かさず、夜中二時間おきに寝
返りをうたせます。兄の世話を家族で協力するよう心がけていますが、母の負
担は相当なものです。それでも、辛い顔一つ見せないのは、兄のことを大切
な一人の人間として見ているからだと思います。

まだまだ福祉は遅れています。やがて両親も年をとり、すべてを抱えきれなく
なるときが必ず来ます。だから、障害者のいる家庭の声をもっといろいろな人
たちに聞いてほしいのです。障害について、もっと知ってほしいのです。真正
面から見てほしいのです。そして、助けてほしいのです。知らなければ、行動
に移せないと私は思います。

 今日も必死に生きようとしている兄の姿があり、それを助け、見守る家族の
姿があります。私は、この家に生まれて本当によかったと思います。そして、
兄が私の兄でよかったと思います。兄がいなければ、差別や偏見の残酷さに
気づかなかったかもしれません。

人は人に生かされていることを教えてくれたのも兄です。だから、私は、「困っ
ている人を助ける」という当たり前の気持ちを大切にしたいです。そして、差別
や偏見に遭遇したとき、逃げないで、「自分の家族だったら」とか、「大切な人
だったら」という気持ちをもって、正面からぶつかっていきたいです。



                                     このページのトップへ
和可ちゃんのお給料
神奈川県・鎌倉市立岩瀬中学校 三年 平賀 亜未

私には障害を持つ姉がいます。ダウン症候群という障害です。母から聞い
たのですが、姉は生まれた時に心臓に三つも穴があいていて無事に育つか
どうか危ぶまれたそうです。そこで両親はいろいろな願いをこめて「和可子」
という名前を姉につけました。和可子の「可」という字に可能性をたくしたのだ
そうです。

発育が悪かった姉は一歳になって心臓の手術をするまでは、ちょっとの風邪
でもすぐ重症になり、息の抜けない毎日だったと母は言っていました。五歳違
いで生まれた私はそのような事は全く知らず、姉の障害についてもよくわかり
ませんでした。

今になって思えば、姉はおしゃべりが上手ではなく、周りの同級生に比べて
体がとても小さかった気はしますが、私にとっていつでも姉は姉で当たり前の
存在でした。障害の有る無しは関係ありませんでした。

 二年前に養護学校の高等部を卒業した姉は現在、地域作業所で働いてい
ます。そこでは織りやクッキー作り、木工製品の仕上げ等をしてお給料をもらっ
ています。

 その日はちょうど作業所の給料日でした。帰宅した姉は給料袋をポンとテー
ブルに置きました。いつもそのようにお給料を袋ごと母に渡すのです。私は冗
談で「いいな和可ちゃん。私におこづかいちょうだい。」と言ってみました。
すると姉はニコニコしながら「うん。」と言って私に給料袋を差し出しました。
私は「本当にくれるのかな。」と思いながらそれを受け取りました。

その袋の中には数枚の千円札と小銭、それと小さな紙が入っていました。

その紙は給料の明細書で、ひらがなで「しゅっきんてあて2200えん、さぎょう
てあて2132えん、ごうけい4332えん」と書いてありました。私は何度も読み
返しました。

「えっ、これがお給料・・・。」

びっくりしました。高校生の兄のおこづかいより少ない金額です。
これだけなのかと思いました。私は姉がどんなにかがんばって作業所に通っ
ているかを知っています。暑い日も寒い日も休まずに、駅の階段を手すりにつ
かまって懸命に昇り降りし、人波に押されながら歩き、モノレールの乗り降りの
時はホームと車両のすき間が恐いけれど、それでも勇気を出して乗って行くの
です。

 このお金はもらえない。大事な和可ちゃんのお給料だから・・・。

私は目の奥が熱くなるのを感じました。涙が出そうになるのをこらえて袋を姉
に返しました。「やっぱりいいや。また今度もらうよ。和可ちゃんの欲しい物を
買いなよ。」私がこう言うと姉はまたもやニッコリして「うん。」と答えました。

私たちのやり取りを見ていた母が言いました。「和可ちゃん、良いお姉さんだ
ね。お給料は少なくてもお仕事をしてお金をもらうという事が大事なのよ。
そうやって和可ちゃんも社会とつながっているんだよね。これはすごいことよ。」

この時私は、障害を持つ人たちが置かれている現実の厳しさと、その厳しさの
中でも一生懸命生きていることのすばらしさ、またどんな人も自分らしく生きて
良いのだという事に気づかされました。

 以前、母と姉と三人で桜木町へ出かけた時、偶然人権についてのイベント
が行われていました。催しの一つに人権メッセージを書くコーナーがあり、母は
姉を誘ってメッセージを書こうと言い出しました。母は姉に語りかけるように何
か書き、その後姉が名前をゆっくり丁寧に書きました。
ボードに貼られた色とりどりのカードの中に混じって姉のカードにはこう書かれ
ていました。

「しょうがいがあっても ひとりのひととして わたしはいきる」

まっすぐで力強い姉の思いが感じられました。姉の思いは私たち家族の思い
でもあるのです。

 姉は今朝も作業所へ出勤して行きました。リュックサックを背負い、首から
定期券を下げたいつもの格好でした。踏み出す一歩は小さくても前を向いて
しっかりと歩いて行く姿はとても立派でした。

 和可ちゃん、がんばってね。ずっとずっと応援しているからね。今までも、
そしてこれからも和可ちゃんは私たち家族の誇りです。



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世界は平和になれるはず
兵庫県・三田市立けやき台中学校 三年 西村奈津実

私には、とても心に残っている一枚の絵があります。
それは、有名な画家によって描かれたものでもなければ、何かの賞に選ばれ
たわけでもありません。しかし、その絵には、平和への強い願いが込められて
いるのです。

私がその絵に出会ったのは、学校の道徳の授業でした。戦場下におかれた
少女が描いたその絵に描かれていたのは、一台の戦車でした。しかし、その
戦車から出ているものは鉄のかたまりではありませんでした。

花でした。

その絵には、少女の望む世界が描かれていたのです。そしてそれは、私の望
む世界でもありました。同じことを望んでいるのに、一人は常に死と隣り合わ
せの毎日を過ごし、私はその絵を見るまで、「世界が平和になればいい。」
という願いと共に「日本は平和だから別にいい。」という考えをほんの少しだけ
持っていた気がします。

でもあの絵を見た瞬間に、私の薄情な考えはきれいさっぱり洗われました。
そして代わりに「平和な日本だからこそ、世界を平和に変えられるはず。」と
気づいたのです。

世界で起こっている数々の戦争は、決して他人事や無関係ではありません。

私たちと同じ歳や、もっとずっと幼い子どもたちまでもが、戦争のために苦しん
でいるのですから。そしてその中には、「平和」という言葉さえ知らない子供も
いるのです。アフガニスタンやイラク、パレスチナの子供たちに「平和とはどん
なことだと思う?」と尋ねると、「平和って何?」という答えが返ってきたそうで
す。私はこのことに大きな衝撃を受けました。
 
 また、授業で配られたプリントの中に、ボスニアのサラエボに住む十二歳の
少女が書いた「世界の子供たちへ」という手紙がありました。

私たちが甘いお菓子を食べている時、彼女たちは生き延びるために草をむし
って食べています。私たちが美しい音楽を聴いている時、彼女たちは砲弾の
とんでくる恐ろしい音を聞いています。私たちがたくさんの水を使ってお風呂に
入っている時、彼女たちは飲み水となる雨が降ることを神様に祈っています。

悲しいことですが、これが事実なのです。私はできることなら、彼女たちに甘い
お菓子を食べさせてあげたいです。美しい音楽を聞いてほしいです。きれいな
水を届けたいです。

でも私の力ではそれはできません。では何ができるかと考えました。まず彼女
たちの苦しみを少しでも知ることができます。それから、彼女たちのために募
金をすることができます。小さなことかもしれませんが、私にできることはそれ
くらいしかありません。

 そして、彼女の手紙の最後はこんな言葉でしめくくられていました。

「こんなことが、あなたたちや、ほかのどんな人たちにも、けっしておこることが
ないようにしてください。」

私は驚きました。私が彼女の立場なら、「どうか私たちを助けてください。」とか
「あなたたちの幸せを少しでもいいから分けてください。」という一文で手紙を
終わっていたと思います。でも、彼女の手紙にはそんな言葉は一つもありませ
んでした。

学校になどきっと行けていない彼女の方が、小学校から道徳の授業を受け続
けている十四歳の私より、ずっと大人でした。大きな悲しみや苦しみを、彼女
はたくさん持っているでしょう。逃げ出したいほどの不安を、いつもかかえてい
ることでしょう。

しかし、彼女の最後の一文は、自分たちの平和が作られることより、私たちの
平和が守られることを祈っていました。胸がしめつけられる思いでした。

 日本に住む私たちがするべきことは、日本の平和を永久に守ること。そして
平和をもっと強く世界に向かって訴えていくことではないでしょうか。

日本は第二次世界大戦で、原爆という名の悪夢を見たはずです、六十年の
年月を経ても、その悲しみは少しも褪せてはいません。
戦争の愚かさを空虚さを一番思い知った日本には、それを後世に、そして世
界に伝えるという大切な役目があります。

世界はきっと平和になれるはずです。世界の未来が、平和が当たり前の明る
いものになるか、日本に落とされた原爆よりさらに恐ろしい爆弾が落とされる
暗いものになるかは、人間次第なのです。

一人一人にできることは小さなことかもしれません。でも、それは決して無駄
ではないはずです。一人一人から国へ。国から世界へ。平和を願う心が伝わ
っていきますように。そして、世界中の全ての人々が平和に暮らせて、小さな
子供が「平和」という言葉を知り「戦争」という言葉を知らない、そんな世界に
なりますように。



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祖母への思い
栃木県・矢板市立片岡中学校 三年 羽吉 麻奈香

「麻奈香、有難う。」寝たきりの祖母が涙ながらに言ったことばです。

 このことばには祖母の感謝の思いがつまっています。

 私の祖母は四年前に脳梗塞で倒れて以来、寝たきりの生活が続いています。
発病した当時は身体が不自由になりはしても、意識ははっきりしていました。
しかし、脳梗塞を二度、三度と繰り返すうちに、認知症の症状も現れ今では、
ほとんど眠ったままです。

今では、食事も腹部に開けた穴から流動食を入れています。そして、認知症
のため、奇声をあげたり紙オムツをはがし自分の排泄物をいじったりと介護を
している家族を困らせるようになりました。

 以前の祖母はとても活発な人で、様々な場所で活躍していました。車の運
転が大好きで私達姉妹もよくいろいろな所へ連れていってもらいました。また
仕事で忙しい母親の代わりでもあり、私達の食事の世話や遊び相手にもなっ
てくれました。

畑で採れたスイカで一緒にスイカ割りをした夏。リンゴの入った祖母特製のカ
レー
の味。忘れられない元気な祖母との大切な思い出です。でも、悲しいことにあ
のカレーはもう二度と食べられません。

そして、認知症のため話しかけても無表情、無反応の祖母を見るたび涙がこ
ぼれそうになりました。
しかし、その反面奇声をあげ汚物まみれの祖母を見ると

「なぜ病院に入れないのだろう」

と祖母を冷たく見つめている私もいたのです。

 家族の介護は大変です。食事の世話から汚物の処理等日々の生活を交替
で行っています。そんな祖父や両親を見ていると、「病院」へなぜあずけない
のかと考えていました。

 それは中二になったばかりの春のことです。

「おばあちゃんのこと頼むな。」

ということばを残し、祖父も両親もでかけ、私と祖母だけになりました。すると、
誰かを呼ぶ大きな声がし、慌てて祖母の部屋に行くと、辺り一面異臭が漂い
祖母の手には紙オムツがありました。

赤ちゃんのように泣きじゃくる祖母の姿を目にした私は“どうにかしてあげたい”
という思いで一杯になり「大丈夫だよ。」と声をかけ生まれて初めてオムツ交換
を行いました。ただただ泣きじゃくる祖母のおしりをティッシュでぬぐい、ぬぐいき
れない汚れをぬれタオルでふきました。

むせ返るような臭いに涙が出そうになりながらも、平静を装いなんとか交換を
済ませると

「麻奈香、有難う。麻奈香が換えてくれたんだねぇ。」

と涙を流しながら祖母の口から感謝のことばが出たのです。その時確かに祖
母の意識ははっきりしていました。私が祖母に小さい時に何度も言った
「有難う。」ということば。それを祖母から聞くなんて・・・。

私はただ「うん、うん。」とうなずくことしかできませんでした。

 その日から、私は祖母への思いが変わりました。

祖母の介護を面倒とか大変とか、イヤだという思いよりも、小さいころから私
達を大切に育ててくれた祖母への感謝の思いがふくらんだのです。どんな姿
になっても私達をやさしく育て支えてくれたのは祖母です。それを忘れ、今の
寝たきりの姿だけを見て、冷たく祖母と接していた自分が嫌になりました。

 今度は私が祖母を支える番。朝晩かかさず声をかけ、時間があると祖母に
話しかけるようにしました。祖母からの返事はありませんが、話すことで気持ち
が整理できる時があるのです。そんな時、祖母が生きているから、今私は頑
張れるという思いが心に広がります。

 そう、祖母と私は支え合って生活しているのです。

 年老いて病に苦しむのは一生の中でさけられない事実です。その事実を拒
むのではなく、少しでも一緒に過ごす時間を大切にしていこうと思います。
確かに介護は大変です。でも、今の大変さを見るのではなく、今までの一緒に
過ごした数々の時間を思い出したり、介護することでお互いが支え合っている
事実を忘れずにいたりすることでこれからも限られた祖母との時間をゆっくり過
ごしたいと思います。

 元気な時、学校への送り迎えを約束してくれた祖母。私が毎日祖母のそば
にいることを約束したいと思います。



                                     このページのトップへ
だれもが主役に
神奈川県・横須賀市立衣笠中学校 三年 城殿 恵

私は生まれつき、手足が不自由です。先天性多発性関節拘縮症という、
関節の曲がりにくい病気で一人では歩くことができません。

普段は車椅子を使って、生活しています。他人から見れば「大変そう」とか
「かわいそう」と見えるかもしれませんが、当の私はこの15年間、一度も悲し
いとかつらいと感じたことはありません。

みんなと同じように普通の学校に通い、いじめや差別を受けることもなく自分
が障害者だと意識せず、過ごしてきました。

 ただ、車椅子の私には、できない事があるのも事実です。体育祭やボール
大会では、みんなが盛り上がっていても、それに参加できない私は、どこか冷
めていました。できることだけを無難にこなし、新しい事にチャレンジしたり、ひ
とつの事に熱中するようなことはなく、またそうしたいとも思いませんでした。

そんな私を大きく変えたのはある事との出会いがきっかけでした。

 中一の終わり頃、クラスの子から演劇部に入ってくれないか、と声をかけら
れました、しかし、その時の演劇部はその子ただ一人で廃部寸前だったのです。

私は部活動には全く興味がなく、ましてや車椅子の私が演劇をやるなんて、
考えてもみませんでした。名前だけでもと強く頼まれ、仕方なく友達数名と、軽
い気持ちで入部しました。

ところが、そんな私達を待っていたのは、夏休みに大ホールで開かれる市内
演劇発表会への出場でした。全く経験のない、しかも車椅子の私が、皆を引っ
ぱっていくことになってしまったのです。

すぐに、新入部員を集めて、なんとか十数人になった部員達と、手さぐりの劇
作りが始まりました。私は演出をまかされ、役者としても舞台に立つことになっ
たのです。しかし、嬉しい気持ちとは裏腹に「車椅子の私にできるだろうか、私
がでたら一人浮いてしまうのではないか」と不安もありました。が、そんなこと
を悩んでいる暇もない位、毎日毎日練習が続き、あっという間に本番はやって
きました。

開演の時間がせまり、舞台袖で待つあの緊張感は、今までに味わったことが
ないものでした。そして幕が上がると、目の前にはたくさんのお客さんが、私達
を真剣にみてくれているのです。その時なぜか、私の中にあった不安が一気
になくなり、いつの間にか、楽しみながら、堂々と、演じていたのです。

 どん帳が下りて、多くの人の、拍手をもらった時、言い表せない程の達成感
と感動があふれてきました。そうです、私は気がつかないうちに演劇にのめり
こみ、無理だと思っていたことにチャレンジしていたのです。

 私が障害者であることを、私も部員もすっかり忘れ、みんながひとつになって
いました。そして今年の夏、部員は25人まで増え、私は部長、演出者、役者と
して再び、あの舞台に立ちました。

今年は思いもかけず、優秀賞と集団演技賞という、すばらしい賞をいただくこと
ができました。部員全員、心から喜びましたが、私にはみんなとは違った思い
がありました。それは劇についての合評会の時、私が車椅子で出演したことに
ついて、何も批評されなかったことです。

障害者が目立ったことをすると、とかく好奇の目で見られ、同情や過大評価を
受けがちです。もちろん、、努力をほめていただくことは、ありがたいことですが
私ばかり目が向くのは、正直とまどう時もあるのです。

でも今回、私個人に対しては一切ふれられませんでした。車椅子での演技を
部員達は自然に受け止め、私も何の抵抗もなくとけこんできました。それが観
ている人にも違和感なく伝わったのだと思います。

審査員の先生から、「集団として、一つにまとまった良い劇だった。」という言
葉を聞いた時は、心から素直に喜ぶことができました。

 私は演劇を通して多く事を学びました。舞台の上では、障害者、健常者の壁
を越えて、その役の人物として存在することができるのです。どんな人であろう
と、その人しかもっていないもの、その人しかできない事があるのです。

 社会には、まだまだ差別や偏見に苦しんでいる人がいます。ひとりひとりが
間違った先入観をもたず、自然に接することを心がければ、きっとだれもが主
役として輝ける世の中に変わっていくでしょう。

 そして、いつの日か、車椅子の女優さんが活躍し、それがめずらしくない社
会になることを、期待しています。



                                     このページのトップへ
一日の始まり
静岡県・牧之原市立相良中学校 一年 嶋崎 大介
 キーンコーンカーンコーン。

「行ってきまぁす。」

「行ってらっしゃい。」

ぼくは毎朝、七時のチャイムを合図に家を出る。母は必ず玄関まで見送って
くれる。今、ぼくはカートを押して中学校へ通っている。
ぼくは皆と違い、ちょっとだけハンディキャップがあるからだ。

中学生になって学校までの距離が遠くなり、荷物も増えたので歩くのが大変
になった。でも毎朝、町の人や商店の人、毎朝通る車の人や、学校に行く途
中の祖母と伯母達等とあいさつを交わし、皆からパワーをもらって元気に一日
をスタートしていく。

そんな風に毎日送り出してくれる母は、どんな人なのかを考えた。母は障害
者で歩くことも立つこともできない。しかしリフト付電動車椅子を使い、移動や
家事や仕事をしている。
しょっちゅう面白い事を言っては自分で笑っている明るい人だ。

そんな母が子育てで一番大事にしたことは、毎朝小さな社会に出かける
「ぼく」を元気に送り出すことだったそうだ。自分の身支度だけでも人が10分
でできることを1時間ぐらいかかるが、がんばっている。ぼくが思うように動か
なくても朝は決して怒らない。特にぼくが小さい頃は毎日試行錯誤だったそう
だ。そのおかげか、小学校の時ぼくは二日しか欠席していない。

 母はときどきぼくに悩みはないかと聞く。ぼくには悩みはほとんどないので

「大ちゃんは平和な人だね」といつも驚かれる。

母は、子どもの頃自分を受け入れられず苦しかったらしいので、こんなぼくの
性格をほめてくれる。

 そんなぼくでも、小学校の時一度だけ悩んだことがあった。あることがきっか
けで、担任の女の先生に心を閉ざしてしまったからだ。ぼくは先生に何か言わ
れても頭が真っ白になって全く受け付けなくなり、最後は涙が自然と出てきた。

反抗する気は全く無かったが、自分ではどうにもならなかった。先生は、将来
のためにぼくの性格と態度を担任のうちに変えると言い、厳しさが増していった。

「話せなくなった」

ぼくは「話さない」という理由で日々指導を受けた。

「男のくせに・・・。○年生にもなって・・・。兄弟がいればもっと鍛えられただろ
うに・・・。」とも言われた。毎朝

「今日も叱られるだろうか。」

「今日も立たされるだろうか。」と不安だった。

そんな時母は「ありのままの自分でいいよ。」と言い続けてくれた。
父も黙って見守ってくれた。

普段学校に協力的な母が初めて先生に反発したそうだ。電話で話し合うたび

「指導には感謝するが結果を早く求めすぎる。将来より今が心配。今までそう
してきたように子どもを信じて自力で成長するのを待ちたい。」

と伝えたが、ぼくの弱さを指摘されるだけで話は平行線だったそうだ。ただ母
は、先生は先生の考え方でぼくを思ってくれていることを理解しなくては、とも
言っていた。ぼくは驚いたが、心にとめておきたいと思う。

 ぼくは家族と友達がいたから、自分を「ダメな子」だと思わずにすんだのだと
思う。学年が変わり、ぼくは新しい先生のおかげで元の自分を取り戻すことが
できた。

 今度父のことを考えた。わが家には男女差別、障害者差別はない。父は若
いころ青年海外協力隊として、アフリカで暮らしたそうだ。父はその経験を通し
て「対等な関係、自立のための協力、共に生きる」ということを学んだそうだ。
そんな父は母が進行する病気による障害者だと知りつつ結婚した。当時

「障害者と出会ったのではなく、出会った人がたまたま障害を持っていただけ。」

と、今は亡き祖父に話したそうだ。それを聞いたとき、母の障害は母の性格
(個性)の付属品みたいなものだという気がした。

父は、母が自分で家事をできるように家を改良したり、工夫したりした。もちろ
ん父も家事を自然に協力している(ぼくもしている)。

 母は子育てのとき、思うようにできなくて、マイナス思考になったときに、気
持ちを途中から切り替えたそうだ。

周囲の協力に感謝しつつ『自分にできることや、自分にしかできないこと』を大
切にしよう」と。これは自分で自分の人権を大切にすることだ、と思う。

 ぼくは「人権を守ること」と聞いたときに「平和」ということを連想した。

「自分を認め、他者を認めることで『平和』を創れる」と思った。はじめは「意識
的」にそれがいつの間にか「自然」に、「あたりまえ」に人権を守れるようになれ
ばいいと思う。

 朝、カートで登校するぼくにいろいろな人が声をかけてくれる。学校でも、
先生や友だちのおかげでぼくはぼくらしくいられる。友だちと勉強したり、話し
たりして、毎日楽しい。ぼくもそういう支えを感じながら、周囲の人の「人権」を
大切にしていきたいと思う。









 子どもたちの
 思いやりあふれる
 チカラ強いメッセージ
 にありがとう♪

ここは、
元気になれるメッセージ 
  〜子どもたちの人権作文〜
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